週 句
主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びてこられる。
イザヤ書40:3、10
主のために、荒れ野に道を備えよ。見よ、主なる神は力を帯びてこられる。
イザヤ書40:3、10
説 教 「先駆者」
士師記13:2~14、フィリピ4:4~9、マタイ11:2~19、詩編113:1~9。
「神に愛されている人は、神からの恵みをたくさん受けている」。これが、旧約聖書の時代の常識でした。裏返せば、恵みを受けていない人は神から愛されていない、救いの範囲外にあると考えられていました。
その意味において、サムソンの母も洗礼者ヨハネの母エリザベトも、最も主の来臨を待ち望んでいた一人だったと言えるでしょう。彼女たちは当時、不妊の女とみなされていました(士師13:2~3、ルカ1:7)。神は人の常識を超えて働かれ、「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる」(詩編113:9)。
しかも、その時生まれた子どもは単なる子どもではありません。救いの先駆者として、彼らはこの地上に生を受けたのです(士師記13:5、マタイ11:10)。
この事実は、大変逆説的です。恵み、救いから遠いと思われていたところが、実は最も近い場所だったのです。そしてこの事実はまた、救いを待ち望みながらもなお神の言葉を聞かないイスラエルに対する神の姿勢を示しています。
「主は御座を高く置き/なお低く下って天と地を御覧になる」(詩編113:5~6)
自分の常識に囚われて神に立ち帰ろうとしない、いわば救いから最も遠い場所にいるイスラエルに、先駆者を通して救いが指し示されます。最も高い所におられる神が、最も低い所へ来られるという救いが。
にもかかわらず、イスラエルの人々は未だ救いを受け入れようとはしません。先駆者に学ばず、「わたしから学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行」(フィリピ4:9)せず、自ら平和の道から外れようとしています。それでもなお神は救いを諦めていません。今、神の言葉に応え、神との約束を守る私たちを通して、救いはなお指し示されているのです。
「礼拝と音楽」より
士師記13:2~14、フィリピ4:4~9、マタイ11:2~19、詩編113:1~9。
「神に愛されている人は、神からの恵みをたくさん受けている」。これが、旧約聖書の時代の常識でした。裏返せば、恵みを受けていない人は神から愛されていない、救いの範囲外にあると考えられていました。
その意味において、サムソンの母も洗礼者ヨハネの母エリザベトも、最も主の来臨を待ち望んでいた一人だったと言えるでしょう。彼女たちは当時、不妊の女とみなされていました(士師13:2~3、ルカ1:7)。神は人の常識を超えて働かれ、「子のない女を家に返し/子を持つ母の喜びを与えてくださる」(詩編113:9)。
しかも、その時生まれた子どもは単なる子どもではありません。救いの先駆者として、彼らはこの地上に生を受けたのです(士師記13:5、マタイ11:10)。
この事実は、大変逆説的です。恵み、救いから遠いと思われていたところが、実は最も近い場所だったのです。そしてこの事実はまた、救いを待ち望みながらもなお神の言葉を聞かないイスラエルに対する神の姿勢を示しています。
「主は御座を高く置き/なお低く下って天と地を御覧になる」(詩編113:5~6)
自分の常識に囚われて神に立ち帰ろうとしない、いわば救いから最も遠い場所にいるイスラエルに、先駆者を通して救いが指し示されます。最も高い所におられる神が、最も低い所へ来られるという救いが。
にもかかわらず、イスラエルの人々は未だ救いを受け入れようとはしません。先駆者に学ばず、「わたしから学んだこと、受けたこと、私について聞いたこと、見たことを実行」(フィリピ4:9)せず、自ら平和の道から外れようとしています。それでもなお神は救いを諦めていません。今、神の言葉に応え、神との約束を守る私たちを通して、救いはなお指し示されているのです。
「礼拝と音楽」より