週 句
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださる。
ペトロの手紙一 5:7
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださる。
ペトロの手紙一 5:7
説 教 「上に立つ人々」
エレ50:4~7、Ⅰペト2:11~25、ヨハ10:1~6、詩編23:1~6。
難しい箇所です。確かに「旅人」「仮住まいの身」と呼べる状況下、迫害下に生きた人々に対する教えですが、「この世の権力に服従せよ」との様な言葉を、今私たちがどう受け止めるのか。また、召使たちに主人への服従を求める言葉には特段の注意が求められます。同時に、体制に従順であることを良しとし、批判的態度に対して罵声が浴びせられるようなこの国の社会を思うと、このような箇所を見過ごさないことに意味を感じます。
「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(2:15)は、キリスト教・キリスト者に対する誹謗中傷を「無知な発言」としているので本来の文脈とは異なりますが、今日の世の中にあってキリスト者の生き方に結びつけて読むことができようかと思います。
教会とキリスト者には世にあって世のために生きる者・共同体としての使命が委ねられています。教団戦責告白において「国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるに‥・」と、私たちがなすべき務めに忠実でなかったと罪責が告白されていることを忘れてはなりません。愛する故に、相手が誤った方に向いているときには批判し、態度を明らかにする。旧約の預言者たちの言葉通りですし、エレミヤも「我が民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた」(50:6)と語ります。そしてこの世の権力の前で苦しみ、それに決して迎合しなかった主イエスが語られた言葉もそれに通じています。
教会とキリスト者がこの世にあって世のためにいかに生きるのか。一人一人に「見張りの使命」が委ねられていることを心して、み心を求めつつ歩むものとされたいと願います。世を真に支配されるキリストを見つめつつ今を生きるこの世での確かな歩みをなし、示された業に励むものとされてまいりましょう。
「礼拝と音楽」より
エレ50:4~7、Ⅰペト2:11~25、ヨハ10:1~6、詩編23:1~6。
難しい箇所です。確かに「旅人」「仮住まいの身」と呼べる状況下、迫害下に生きた人々に対する教えですが、「この世の権力に服従せよ」との様な言葉を、今私たちがどう受け止めるのか。また、召使たちに主人への服従を求める言葉には特段の注意が求められます。同時に、体制に従順であることを良しとし、批判的態度に対して罵声が浴びせられるようなこの国の社会を思うと、このような箇所を見過ごさないことに意味を感じます。
「善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(2:15)は、キリスト教・キリスト者に対する誹謗中傷を「無知な発言」としているので本来の文脈とは異なりますが、今日の世の中にあってキリスト者の生き方に結びつけて読むことができようかと思います。
教会とキリスト者には世にあって世のために生きる者・共同体としての使命が委ねられています。教団戦責告白において「国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるに‥・」と、私たちがなすべき務めに忠実でなかったと罪責が告白されていることを忘れてはなりません。愛する故に、相手が誤った方に向いているときには批判し、態度を明らかにする。旧約の預言者たちの言葉通りですし、エレミヤも「我が民は迷える羊の群れ。羊飼いたちが彼らを迷わせ山の中を行き巡らせた」(50:6)と語ります。そしてこの世の権力の前で苦しみ、それに決して迎合しなかった主イエスが語られた言葉もそれに通じています。
教会とキリスト者がこの世にあって世のためにいかに生きるのか。一人一人に「見張りの使命」が委ねられていることを心して、み心を求めつつ歩むものとされたいと願います。世を真に支配されるキリストを見つめつつ今を生きるこの世での確かな歩みをなし、示された業に励むものとされてまいりましょう。
「礼拝と音楽」より