週 句 御顔の光をあなたの僕の上に輝かせてください。あなたの掟(おきて)を教えてください。
詩編119編135節
詩編119編135節
説 教 「生涯の日を正しく数える」 高橋牧師
詩編90編1~12節
「帰れと招かれる家」
本日は帰天者記念礼拝です。岡山教会では、先に地上での生涯を終えた方々のお写真を通して、普段から共に礼拝をしているという信仰を表す日でもあると聞いています。
本日の聖書箇所・詩編90編12節の新共同訳に合わせて、説教題を「生涯の日々を正しく数える」としたのですが、そのようなことは果たして可能なのでしょうか?死がいつ訪れるかわからないということは現代人の一般常識です。ちなみに、「生涯の」という部分は日本語訳者による付け加えであり(2018年刊行の協会共同訳では「残りの日々」:これについては付け加えである旨が引照に明記)、読み方によっては、何か信仰を私事化・個人化してしまうようで、私としてはよしあしだなあと感じています。
ところで、私が自分の専門であるデス・エデュケーションについて学んでいた時に気づいて驚いたことは、中世ヨーロッパのキリスト教徒にとって「死がいつ来るかわからない」という私たちの当たり前は、むしろ非常識であったということです。ある時期までは、敬虔な人々ほど自分の死期を正確に捉え、あらかじめ司祭や身の周りの者たちに具体的な日時を伝えて自分の看取りをさせることがむしろ普通だったようです。教会による看取りが制度的に整えられる前の時代、3世紀頃のエジプトに生きた砂漠の師父母と呼ばれる人々も同様でありました。しかしその「数え」は本質的なところからみれば、あくまでも副産物でしかありません。
では、もっと本質的なところで「生涯の日々を正しく数える」とはどういうことなのでしょうか?「死期」がわからなくなったことは、村落共同体の衰退と並行して起こっています。そうであれば、私たちなりにこの時代において「わが主という住まい」(詩編90編1節より)に生きることに生涯の日を正しく生きる「知恵」(12節)があるのです。
詩編90編1~12節
「帰れと招かれる家」
本日は帰天者記念礼拝です。岡山教会では、先に地上での生涯を終えた方々のお写真を通して、普段から共に礼拝をしているという信仰を表す日でもあると聞いています。
本日の聖書箇所・詩編90編12節の新共同訳に合わせて、説教題を「生涯の日々を正しく数える」としたのですが、そのようなことは果たして可能なのでしょうか?死がいつ訪れるかわからないということは現代人の一般常識です。ちなみに、「生涯の」という部分は日本語訳者による付け加えであり(2018年刊行の協会共同訳では「残りの日々」:これについては付け加えである旨が引照に明記)、読み方によっては、何か信仰を私事化・個人化してしまうようで、私としてはよしあしだなあと感じています。
ところで、私が自分の専門であるデス・エデュケーションについて学んでいた時に気づいて驚いたことは、中世ヨーロッパのキリスト教徒にとって「死がいつ来るかわからない」という私たちの当たり前は、むしろ非常識であったということです。ある時期までは、敬虔な人々ほど自分の死期を正確に捉え、あらかじめ司祭や身の周りの者たちに具体的な日時を伝えて自分の看取りをさせることがむしろ普通だったようです。教会による看取りが制度的に整えられる前の時代、3世紀頃のエジプトに生きた砂漠の師父母と呼ばれる人々も同様でありました。しかしその「数え」は本質的なところからみれば、あくまでも副産物でしかありません。
では、もっと本質的なところで「生涯の日々を正しく数える」とはどういうことなのでしょうか?「死期」がわからなくなったことは、村落共同体の衰退と並行して起こっています。そうであれば、私たちなりにこの時代において「わが主という住まい」(詩編90編1節より)に生きることに生涯の日を正しく生きる「知恵」(12節)があるのです。