週 句
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:14
人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 3:14
説 教 「自分は救えない」!? :梅田 環
十字架への道
哀5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩118:19~29。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
マタイによる福音書 27:42
イエスさまに代り、シモンが十字架を担ぎましたが、当時、罪人に十字架の横木を運ばせ、惨めな姿をさらさせる習慣があり、兵士たちが服を分けたのも、習わしに従ったものです。罪状書きの「ユダヤ人の王」は、本来、イエスさまが王であるという本質を表します。政治的な王ではなく、わたしたちを無限に愛される王です。十字架から降りるという不思議(超能力?)をもってではなく、神にひれ伏すことによって、わたしたちに赦しをもたらす方として立たれるのです。
「なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩22:2)の言葉は、イエスさまが幻のようなものではなく、生身で十字架に架かられ、人が味わう苦悩の全てを請け負われたことを明らかにします。人間としての死、人間性がたどり着く所の死を死なれたのであり、体の苦しみのみならず、神に見捨てられる魂の苦しみを味わい尽くされたのでした。神に裁かれ見捨てられるわたしたちの罪を、ご自分のこととして、請け負われたのです。この叫びは、神の裁きの厳しさを伝えます。全身を神に向け、神に叫びながら、なされる全てを受け入れる壮絶な死でした。
神殿の幕が裂け、大祭司が犠牲を献げて、罪を贖う儀式をする場所との隔てがなくなったのは、だれでもが神のみ前に立つことができるようになったことを示すものです。犠牲の動物に罪を贖う力があるのではなく、イエスさまが神と人間との間に立つ大祭司となり、ご自身を神へのまったき献げ物とされたのでした。
暗転と地震は、主の死が自然界全体、陰府にまで影響を及ぼすことを示します。百人隊長の証言は「隅の親石」の実現でした。
十字架への道
哀5:15~22、Ⅰコリ1:18~25、マタ27:32~56、詩118:19~29。
「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。
マタイによる福音書 27:42
イエスさまに代り、シモンが十字架を担ぎましたが、当時、罪人に十字架の横木を運ばせ、惨めな姿をさらさせる習慣があり、兵士たちが服を分けたのも、習わしに従ったものです。罪状書きの「ユダヤ人の王」は、本来、イエスさまが王であるという本質を表します。政治的な王ではなく、わたしたちを無限に愛される王です。十字架から降りるという不思議(超能力?)をもってではなく、神にひれ伏すことによって、わたしたちに赦しをもたらす方として立たれるのです。
「なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩22:2)の言葉は、イエスさまが幻のようなものではなく、生身で十字架に架かられ、人が味わう苦悩の全てを請け負われたことを明らかにします。人間としての死、人間性がたどり着く所の死を死なれたのであり、体の苦しみのみならず、神に見捨てられる魂の苦しみを味わい尽くされたのでした。神に裁かれ見捨てられるわたしたちの罪を、ご自分のこととして、請け負われたのです。この叫びは、神の裁きの厳しさを伝えます。全身を神に向け、神に叫びながら、なされる全てを受け入れる壮絶な死でした。
神殿の幕が裂け、大祭司が犠牲を献げて、罪を贖う儀式をする場所との隔てがなくなったのは、だれでもが神のみ前に立つことができるようになったことを示すものです。犠牲の動物に罪を贖う力があるのではなく、イエスさまが神と人間との間に立つ大祭司となり、ご自身を神へのまったき献げ物とされたのでした。
暗転と地震は、主の死が自然界全体、陰府にまで影響を及ぼすことを示します。百人隊長の証言は「隅の親石」の実現でした。